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相手に寄り添う対話の中で、人は相手のなかの自分を見る。

どうも、jazziです。

今日はふと、こんなテーマ。友人と話していた時に思ったことです。

誰しも日常の中で色んな人と話をすると思います。そんな時私はたまーに、「本当に相手の話を聞けているのかな?」と疑問や不安に思ったりすることがあります。例えば、家族、友達、恋人、また、本や映画の中の誰かの言葉。

言葉のキャッチボールなんていうけれど、相手からの言葉を受け取って、理解して腑に落としたり共感したりして、自分なりの気持ちを表現したり、言葉にして伝えることって、案外難しいことだと思うんです。

私は人の話を聞くことも、自分の話をすることも大好きですが、たまに「相手の真意や伝えたい事を理解できているのだろうか。逆に私も相手に伝えたり、表現できているだろうか。」と思います。

だって、みんな育った環境が違えば経験したことも、それに対して感じたことも、価値観すら全く違う。時には同じ環境で全く同じように生きたとしても、感じ方が違うことすらある。

そんな全く違う人同士が話をして、真に繋がることが本当に可能なのか。なんて考え始めたら、世の中の誰かの気持ちや、真意や伝えたい事を100%理解しようなんて不可能だし、おこがましいのかも。それに実は、相手の話を理解したように思えても、共感しているように思えても、そんなのフェイクに過ぎない。なんて思います。

考えすぎでしょうか?笑

でもそんな難しさや不確定さがあるからこそ、人と繋がることも話せることも嬉しさを感じます。特に誰かの気持ちを知れたり、内面に触れられたり、私の少ない経験と、まだ小さな価値観だけどその中で、相手を理解出来たり、共感できたときはとても嬉しくて幸せを感じます。

もしかしたら、知れたとか、触れられたとか、理解も共感も、「勘違い」なのかもしれないけど。笑

でも、「勘違い」であったとしても、話して相手に持った愛情とか、尊重とか、反対に嫌な気持ちとか、複雑な心境とかも、全部ひっくるめてその「話した」っていう行為で、何かが自分の中でも、相手の中でも変わったならきっと意味があると思っています。

だから、本質的にはたとえ「勘違い」であっても私は人と繋がりたいと思うし、誰かと何かを共有出来たりしたら本当に「ラッキーだなあ、幸せだ。」と思います。

だからこそ私は今日も人と話すし、本を読むし、映画を見るし、ブログを書く。私の一種のエゴかもしれない情動で。笑

でも、誰かにとっての良き理解者であり、同志であり、同時に、誰かにとっての嫌なエゴイストであり、反逆者。そんな二面性があって、全部表裏一体なんだと思うと、どんな意見も尊重したいし、尊重できると思う。

したいと思う反面、出来ているのか不安にもなるけど、それも私。全部ひっくるめて私であり、みんなであり、私である。相手は自分。自分の中に相手を見て、相手の中に自分を見る。

人と寄り添って話すのって、相手と話している様で、実は相手の中の自分と話しているのかもしれない。その時相手も私の中に自分をみて、話していて。だからこそ話していると無二の親友に会えたみたいに嬉しくて、楽しい。

じゃあ、自分を理解して自分に寄り添うことが、相手に真に寄り添うことにつながるのかも。真に人に寄り添うには自分に寄り添えないと無理な事なのかも。

そんな小さな私なりの気づき?があった午後でした。

 

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